音楽展

ブログです。見れば分かりそうなもんだ。

分断感

現代は分断の病に陥っている。

俺は時代の被害者であり、2年前ほどから徐々に躁鬱を発症し、年々酷くなっているのを昨日くらいに自覚した。

そして、ただいまバイオリズムが躁に振れている。

 

客観的に見て、この躁鬱は治らないであろう。

俺には治る環境もなければ、自身の状態を自身の力だけで周りに伝える技術もないからだ。

ただ、鬱の世界は沈んでいくだけである。浮上の夢などは見るだけ無惨なものである。せめてもの救いを求めるなら、タナトスに従って死んでみるがいいだろう。

俺が死のうが、お前が死のうが、世の中は変わらない。死は世の中にとって一般的なことで、個人にとってだけ特殊である。もし社会性に囚われているなら、停止した生というフィクショナルな世界観を逸脱して、死によって現実へ回帰することを強くオススメする。無論、死んでまで社会復帰するのはバカバカしい事だが、自分の命は自分で削るほうがマシだ。

 

分断されざるを得ない。

俺はすでに社会的意義を大半失って、存在を否定されるだけになってきている。ここから理解されようと考えるだけ、徒労に思える。

所詮、他人は他人に過ぎないのである。

現代では、人の輪はテリトリーを守り、新たな輪の歓迎を良しとしない。文化的に繋がろうという気は一切ない。ただ、内部に直接落とし込まれた要素だけが、無機質に消費されていくのである。

 

まあ、抽象論で説明するよりも具体例を上げるが良かろう。

近年、動画の切り抜きが流行っている。

クソガキはタイパという言葉を使って切り抜き文化を説明しようとするが、結局はあれも分断のひとつだ。

動画内に存在する深さを抽出しているに過ぎない。

言い換えるなら、グラデーションの一部を指定して、その指定部分だけを味わっているに過ぎない。

生成AIなんかにも同じことが言える。

今の時代、テキスト・画像・イラスト・音楽など、なんでも生成できるわけだが、その生成に使われるのはプロンプトだ。つまり、文化から抽出された要素。文化を形成している一部分を使って、近似値的なものを生成している。

 

いったん感覚の話に戻させてもらう。

オリジナルのコンテンツというのは、特定の言い表せない空気感を内包している。

対して、AI生成された近似値コンテンツからは、その空気感は失われる。

これは好悪や善悪の問題ではなく、ただ質感に差異が表れるというだけのことだ。

ひょっとすると、AI生成を享受するユーザーは、オリジナルの持つ空気感に価値を感じていないのかもしれない。そのことにユーザー自身が自覚的か否かは関係ない。彼がオリジナルに求めているのは、あるひとつの要素であって、総合的な独自の空気感ではないかもしれない。

仮にそうであるなら、オリジナルとはもはや不純物の塊であり、一気に価値を落とす。オリジナルは様々な角度から要素を分解され、分解された要素は一人歩きし、他の分解された要素との再結合を繰り返す。

そして氾濫するのは、深みを失った表面的なコンテンツ郡である。これらは表面的で不連続な要素と結合し続けたため、コンテンツとして停止している。不連続の産物が、孤立した状態で浮かんでいる。このコンテンツには歴史などなく、伝統もないため、ただの表面的な再結合でしかない。

 

言葉もそうである。

現代は語彙力という言葉が誤解されている。

語彙力というのは、単に言葉をたくさん知っていて、いつでも濫用できる力ではないはずだ。

そもそも言葉とは、原始的に向かう先を持つものではないか。自分のために扱う言葉は、単なる遊戯ではないか。

 

要するに、言葉を相手に伝わるよう扱うのが語彙力である。

それらしい言葉のニュアンスだけを歓迎し続けるから、不必要な言葉が増えるのだ。よりセンシティブな言葉だけを好んで、それを扱うことで元来の表現を淘汰した気でいるのか?言葉に優劣を付けて、流行に乗ろうとしているのか?流行に乗るたび、個人が淘汰されていく事実に気付くがいい。

 

さよならだけが人生だ。

だが、さよならの持つ価値さえも、今は矮小なものである。

個人は個人の世界に、徹底的に籠もり続けて、さよならを忘れていくだろう。

それもいい。所詮は交わらぬ運命なのだよ。

俺達はもう、傷付けられるのに慣れてしまったのだよ。

じゃ、さようなら。