書き出しはいつも迷います。なにを書いて良いものか分からない。しかし、いずれは着手しなければ記事になりません。分からないままで置いておけるものが、この世界に存在するでしょうか。
いつだったか、文学は無駄なものと聞きました。僕はそう思いませんでしたが、生きるのに絶対にひつようか?と問われれば、まあ無くても生活はできます。
世の中で生活しているのは自分の生活に潤いのある人間ばかりではありません。渇いた日常に、変化を齎すなにかを求めて生きている人も多くいます。そういう人たちには光が必要なのです。なんの変哲もない光。
誰かの書いたフィクションにはその光がある。完全には一致しないが、共感できる理想がある。それは現実よりも美しい世界です。人間が美しいものを求めるのは自然。求められる限り、文学は無駄ではないと感じる。
問題はしかし、そこから思考を進めないと浮かび上がらないのかもしれん。
フィクションはあくまでフィクション、存在しない世界を脳内で作り出しているに過ぎない。故に、生活の糧にするのは許されても、入り浸ることは許されないのです。
もしそちらの住人になりたいというならば、狂気に頼らなければいけなくなる。前後不覚を装い、なにも分からないという状態を一生保ち続けることが前提条件です。
分からなければ許される。曖昧にして、気付かないでいれば罪悪感はない。そうしないと生きていけない。そして光に頼って、闇を貫く。それに間違いはないと思います。僕だってそうしないと疲れるから。
でも、闇というのは向き合わなかろうが光に応じて増える。闇は無尽ですから、有限の光では隠しきれないです。分からなくってもあります。意識しない奥底に、意識できない遥か彼方にのさばっているんです。怖いですね。
その闇は文学に任せておくのが吉です。文学の発する光は透明で、一切の闇を作らない。作るのは人間ですから、フィクションには無関係。
もちろん闇みたいなのも作れますけど、それもただ光の色を闇に近づけたに過ぎない、偽りのものです。感傷に浸るにはもってこいの透明なやつです。ほれ見ろ、現実とは比べ物になんない程キレイですね。フィクションって。
分からなくっても良いことはあると思いますよ。
物語を創作する方は大抵、分かるために描いてます。未知を伝えるのは骨が折れる作業ですが、必死でしょう。
そうやって必死に作られた世界は、現実への不透明な恐怖を曖昧にしてくれる。純度100%のフィクションでこそ為し得る、究極の癒しではないでしょうか。
以上をもって、僕の愛する自作曲はゴミではないことを証明します。
やっと寝れるわ。