音楽展

ブログです。見れば分かりそうなもんだ。

僕の現実について。いつも軽い精神異常でもあると理解しているが、しかし脱却できないのでぜひ聴いてもらいたい。

現実と虚構について、その両次元の密接な関わりを痛感している。作品とは、言ってしまえば人工物。綺麗に、自然に、美麗に細工しても、それは決して神が手を加えたものではない。産業廃棄物になにも感じないだけであって、実際はどんな娯楽も必要ない…いいや、商業媒体で使い捨てられた芸術そのものが産業廃棄物だと思う。作品の価値を明確に定めなければ、どれほど素晴らしい完成品もゴミである。

では商業目的で作られていない作品にはなんと名を冠するべきであるか。それはもちろん、趣味とか遊びとか。だけど、僕は遊びで作ってるつもりないぞ。定期的に作らねば精神が腐りきってしまうのだ。だからこういったものを半ば縋るように作っている。

元からそういった意図で作っている。つまり、こうして公開する必要性は0。ならばなぜ公開するのか?もちろん、寂しいから公開するのである。毎日のように自慰をするのは絶対に飽きる。感想を欲しがるのは、自分の性癖を人がどう感じるか試していると言っても良い。もし求められても作るのは難しい。いわば公開オナ…変態性は恥ずかしいので封印する。

虚構を作り上げようとしているのか、現実に鋭いメスを入れようと藻掻いているのか。それすら自分で分かっていない。ただ、多分だけど、虚構ってものは現実があってこそだと思う。現実が信じられないで虚構に逃げ込む時、逃げ込む虚構のことは信じている。それは現実を信じているとも言えるのだ、本当は素直になれないだけ。虚構が現実の一部分として日常に取り入れられたに過ぎない。抑圧されない世界を選び取ったに過ぎない。それが世間から歓迎されるものであろうが、マイノリティであろうが、関係ない。等しく現実だ。

 

作品を捨てる・忘れる時、僕らは現実を切り捨てている。そしてまた新しい現実を手に入れるのだ。目の前に広がる世界が自らのすべてなんて、口が裂けても言えるはずがない。現実と虚構はいつも地続きなのだ。どんな形であれ、心の世界に嘘などない。嘘と断じるのは他人、そして自分だ。信用ならないのは自分だけだ。

信用できない自分という他人に信用してもらうために、僕は作品を吐き出している。作っている間、とても楽しい。幸せ。それ以上になにもない。伝わるものがあるとすれば、きっとそれは虚無である。

 

つーわけで、曲の感想を待ってます。