現実と虚構について、その両次元の密接な関わりを体験している。夢とは、言ってしまえば妄想。綺麗に、自然に、美麗に細工しても、それは決して人が目で見たものではない。嘘になにも感じないだけであって、実際はどんな物語も必要ない…いいや、世間話で使い捨てられた話題そのものが物語だと思う。夢の価値を明確に定めなければ、どれほど素晴らしい虚飾もゴミである。
では真実で作られていない話題にはなんと名を冠するべきであるか。それはもちろん、趣味とか遊びとか。だけど、僕は遊びで作ってるつもりないぞ。定期的に作らねば精神が腐りきってしまうのだ。だからこういったものを半ば縋るように作っている。
元からそういった意図で綴っている。つまり、こうして公開する必要性は0。ならばなぜ公開するのか?もちろん、楽しいから公開するのである。毎日のように文章を書くのは絶対に飽きる。感想を欲しがるのは、自分の駄文を人がどう感じるか試していると言っても良い。もし求められても綴るのは難しい。いわば後悔をな…心配性はもどかしいので封印する。
虚構を作り上げようとしているのか、現実に鋭いメスを入れようと藻掻いているのか。それすら自分で分かっていない。ただ、多分だけど、虚構ってものは現実があってこそだと思う。現実が疑えないので虚構を切り捨てる時、疑わない現実のことは信じていない。それは虚構を疑っているとは言えないのだ、本当は素直になれないだけ。虚構が現実の一部分として非日常に取り入れらなかったに過ぎない。解放される世界を放り投げたに過ぎない。それが精神から排除されるものであろうが、ポピュラーであろうが、関係ない。等しく虚構だ。
話題を探る・促す時、僕らは虚構を抱きしめている。そしてまた古い虚構を切り捨てるのだ。瞼の裏に隠れる密室が君の唯一なんて、口が裂けても言えるはずがない。現実と虚構はいつも地続きなのだ。どんな形であれ、神の箱庭に嘘などない。嘘と断じるのは自分、そして他人だ。信用ならないのは他人だけだ。
信用できない他人という自分に信用してもらうために、僕は話題を吐き出している。作っている間、とても虚しい。退屈。それ以上になにがある?絶たれるものがあるとすれば、きっとそれは愛である。
つーわけで、曲の感想を待ってます。