自分がなにをしたいか分からないとか、そういった曖昧な展望を抱えていること自体に罪はない。でも、それを原因と言い張って自らの怠惰を正当化するのは少し感覚がズレていると思われる。
頑張ると言うのは簡単だが、なにを頑張れば良いのかが分からないと、頑張ることを頑張るというよく分からない状態になってしまう。自分の辿り着くべき目標を真剣に見据えられなければ、頑張るという行為に意味はないと考える。
もちろん、頑張ったという過程は尊いと思う。しかし頑張ったから結果が出なくても許されるのかと問われれば、そういう訳ではない。厳密に定義するならば、許しを乞う対象から定めなければならない。この場合は自分、または他人、あるいは両方だろう。
全ての存在は内的な許しと外的な許しの上で存在している。花は生存と繁殖のために生き、虫はそこから蜜という恩恵を享受し、人はその存在を愛でる。この時点で花はそこに存在することを許されている。この事から、生存本能は内的な許し足りえる要素であるとする。
では、花や動物と違い、知性を持つ人間は生存本能のみでその存在を内的に許されるだろうか。結論から言えば、僕はそうは思わない。なぜなら、人間には考える能力があるので、これから起こる事象を細かに予見できる。人は死期を知り、時に自死行為に至る。そこには感情というものが作用している。
では、感情とはなにか。それが僕には分からない。人間の生存本能に抗うかのような機能を見せることから、合理性で本能を抑制する理性の一部ではないかと考えてはいるが、感情は時折、合理性を度外視した不可解な行為に人を駆り立てる。分かりやすく言えば、感情は「衝動」と呼ばれる精神的エネルギーを引き起こす。
「衝動」が齎すのは決まって不合理な行動だ。例えば、迷惑だからギターを弾くなと隣人に言われたのに、衝動で弾き続けることにはなんのメリットもない。余計に迷惑がられるし、自分としてもそれを承知の上で弾いているから爽快ですらない。どの角度から見ても無駄な行為だ。この衝動の原因は「見栄」と「羞恥」であり、どちらも自らに対して屈辱感を与える。しかし合理的に考えるならば、その屈辱感を解消する手立てを模索するはずだ。なのにわざわざ、自らの屈辱感を余計に大きくしてしまうと理解していながら、あえてこのような行動をとる。
とどのつまり、衝動とは合理性の範疇にないものと考える。この不合理性こそが人間の内的許しを阻害している原因だ。
文明を造って生きる人間は、内か外のどちらか一方に拠ることはできない。個人の価値観に差異はあれど、自然的に見れば内外のあらゆる現象の価値は均等であり、そのような自然を受け入れられぬ者は許しを得られず破綻する。
それと、もう僕が言いたいことはない。
僕は緩やかに死を待っているが、その待っている死からすら目線を逸らしている。現実など最初からまともに見れていないし、この先見れる自信もない。
だが、そうして何にも向き合わぬことを許せる僕でもない。だから頑張るが、どこを見れば良いかを長い間曖昧にしてきた。いっそ手遅れになれば良いとすら思う。だが、横目に見る生と死は驚くほど当たり前の顔で僕を見る。見られているのは錯覚ではない。僕はその目線を振り切る術を持たない。その方法を知ることすらしない、つまり怠慢である。
だけど僕は生きている。適当に頑張って生きている。楽しいと思える事だけを選ぼうと心に決めた、その下らない虚栄心を見透かされぬように。それを許せる日がくるだろうか。花のように生きるのが夢だ。